パリ・オリンピック(五輪)で、ブレイキンが正式競技となった。日本勢にはメダル獲得の期待がかかる。米国発祥のこのダンスを日本に広めた一人と言われているのが、タレントの風見しんごさん(61)だ。
受け入れられた理由とは。風見さんに約40年前を振り返ってもらった。
――ブレイキンとの出会いを教えてください。
「(1983年公開の)映画『フラッシュダンス』の中で、子どもが踊るワンシーンでした。今でいう、背中で回る簡単なバックスピンだったんですけど、衝撃を受けたんです。『どうやって動いているんだろう』『こんな踊りがあるんだ』っていう。あの頃は雑誌『ポパイ』やスケートボードなど、米国のライフスタイルが若者の間でちょっとしたブームになっていました。ブレイクダンスも、非日常的な感じが新鮮に映ったんですよね。あ、これをやりたいって」
――当時の風見さんはデビュー間もない時期でした。
「デビュー曲の『僕笑っちゃいます』がヒットした頃ですね。そんな時にブレイクダンスを見て、これを取り入れたいと思ったんです。ピンク・レディーの振り付けなどを担当していた土居甫さん(故人)に僕も教えてもらっていたんですが、『それ(ブレイキン)は知らない』って言われて。(ブレイクダンスなど)ヒップホップが踊りのジャンルとしてまだ確立されていない時代ですから。だから、現地に行くしかないなと思ったんですね」
――米国に渡って、本場のブレイキンに触れたんですね。
「10日間ほどたまたまスケジュールが空いたので、ニューヨークに行きました。ホテルの方に『どこでブレイクダンスを見られますか?』と聞いたら、『タイムズスクエアのあたりで、小銭をもらうために帽子を置いた若者をたまに見るよ』と。地名ははっきり覚えていないのですが、少し薄暗くて危険な感じがあるような地区。生で見たのはそれが初めてでした」
「路上で踊っていたのは、10代前半から15、16歳あたりの子たちでしょうか。いわゆる大道芸のような感じ。でも、彼らにとっては私の方が物珍しかったんでしょうね。連日、アジアの若者がへばりついて見ているわけですから。当時、僕の小遣いは少なかったんですけど、見にいく度に5ドルとかあげていたら覚えてくれますよね。英語はそんなにできなかったんですけど、『Please teach me』(教えてください)って言い続けて。不思議と通じるものなんですよ。その時、中南米系のグループに『ハンドウェーブ』(腕を波のように動かすダンス)を教わりました。それが始まりですね。彼らの踊りが入った1本30~40ドルのビデオテープを3本買ったんですが、全て同じ内容でした。今ではいい思い出になっています」
――実際に生で見た時、何を感じましたか?
「『映画がそのままここにある』と思いました。今の選手からしたら、なんでもない技。でも、ものすごく新鮮で。『僕もテレビでやりたい』『コンサートに来てくれたお客さんに見せたい』って思いました。そして、帰国後はバックダンサー探しが始まるんです」
――バックダンサー探しは大変だったんですか?
「そうですね。レコード会社…