「エモい記事」をめぐる議論が注目を集めています。一石を投じたのは、3月にRe:Ronから配信された社会学者・西田亮介さんの論考。ネット時代の新聞の役割とからめて、エピソード主体の「ナラティブで、エモい記事」について批判的に論じました。
「ナラティブ」とは、「語り」「物語」を意味し、ビジネスでも注目されていますが、メディア大国の米国ではジャーナリズムの一つの手法として長く議論されてきたテーマです。
その実践や必要性について、どのように語られてきたのか。米ジャーナリズム教育・研究機関「ポインター研究所」のチップ・スキャンランさん(74)に、オンラインで聞きました。
――ナラティブをめぐる日本の議論をどう受け止めますか。
私はかつて七つの新聞社で記者をし、キャリアのほとんどがナラティブライターでした。そのうえでまずお伝えしたいのは、ナラティブとそれ以外の記事の違いです。
記事は通常、公的なできごとや情報を明確かつ簡潔に整理して伝えるもので、新聞の伝統的な手法となってきました。一般の人たちではなく、公共の関心事に焦点を当てています。
こうした記事は、読むべきできわめて重要ではあるものの、多くの場合、人はなかなか読もうとはしません。まるで、飲まなければならない薬であるかのように敬遠されたりします。
あるピュリツァー賞記事
一方、ナラティブは物語として、情報源よりも登場人物を取り上げる。住所ではなく場所の感覚を与え、五感を頼りにし、人間の状態に焦点を当て、ドラマを表現する。自分の状況が映し出されていると感じさせるがゆえに、共感を呼ぶのだと思います。
――例えば最近、どんな例がありますか。
ジョージア州で2020年、25歳の黒人青年アマード・アーベリーさんがジョギング中に白人3人に射殺された事件がありました。通常の記事ならこう始まるでしょう。「日曜、3人の白人男性がジョギング中の男性を追い詰め射殺した、と警察は発表した」
ライターのミッチェル・ジャクソンさんが雑誌「ランナーズワールド」に書いた記事は、こう始まります。「ブランズウィック高校の(フットボールチーム)パイレーツの練習場で、2軍のスキャットバックから小柄な代表ラインバッカーに転じた若きアマード・“マード”・アーベリーを思い浮かべてほしい」。サスペンスを設定し、共感できる人物を非常に生き生きと描き、物語に入っていく。記事はピュリツァー賞をフィーチャーライティング部門で受賞しました。
ナラティブには何かが欠けているという考えに私が異議を唱える理由のひとつは、優れたナラティブは、非常に深い本質的な取材にかかっているという点です。単に感傷的なものを見いだすのでなく、登場人物の詳細や筋書きを見いだす。そのためにはたくさん取材しなければなりません。人間の状況を理解するためにも重要です。
――マイノリティーの声を伝えるうえでも重要になっています。
そうです。マイノリティーの人々の話は普段あまり取り上げられない。課題の現実を伝えるには、数字の背後にいる人々を示さなければなりません。語られていない人たちの経験はデータと同じくらい重要、あるいはそれ以上に強力だと私は主張したい。読んだ人は怒ったり感動したり感情的に反応するかもしれないし、行動に移したりするかもしれませんが、最高のナラティブには人間の物語とデータの両方が必要だと思います。物語がデータの質を高め、より大きな力をもたらすのだと思います。
――ただ、一般に、悲惨な事件や戦争、難民などのナラティブは支持されやすい一方、「街のいい話」や「地元で愛された店の閉店」といった話には、必要性が見いだせないという意見もあります。この違いをどう考えればよいでしょうか。
「地元で愛された店の閉店」といった記事は、厳密な定義ではナラティブではなく、人間の関心を引く「ヒューマンインタレスト(human interest)」記事でしょう。人ものや人情ばなしとして、一般に、暮らしの断片や単一のエピソードを紹介したものです。
これは100年以上もの間、ジャーナリズムの定番です。19世紀には、人ものの記事を書けば読者をひきつけられると編集者は気づいていました。
こうした記事に人々が引かれる理由は、自分にも影響があるかもしれないと感じるからだと思います。それがどれだけ感情に訴えている(emotive)かどうかはわかりません。でもそもそも、ニュースにおける感情(emotion)は、何も悪いことではない。
――ナラティブは米国でどのように勃興してきたのでしょうか。
長い歴史があります。19世…
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