第2回「クビ覚悟」熱帯びた国鉄民営化 地方路線問題は「慎重に進めた」
150年の歴史を持つこの国の鉄道が、大きくありようを変えた日がある。1987年4月1日――。法に基づいて国が設立した日本国有鉄道(国鉄)が、JR各社に分割民営化された。巨額の累積赤字を抱えた組織を立て直すためだった。だが、いま先行きが危ぶまれる地方路線の問題は、当時、顧みられることはほとんどなかった。
「本田、これ書くか」
本田勇一郎(84)は、井手正敬(89)に呼ばれて書面を示されたことを覚えている。記憶では、85年5月ごろ。本田は国鉄の旅客局総務課長だった。
後にJR西日本の社長や会長を歴任した井手は当時、民営化をめざす「若手改革派」のリーダー。書面には、分割民営化や経営陣の刷新など国鉄の抜本的改革を訴える内容が書かれ、後に井手とともに「国鉄改革3人組」といわれる葛西敬之(よしゆき)(故人、後にJR東海会長)や、松田昌士(まさたけ)(同、後にJR東日本社長)らの署名があった。
「失敗したらクビになると言われたが、民営化するしかないと思っていたので署名した」と本田は振り返る。
最終的に署名した20人は、当時全員が40代前後。民営化後にJR各社を率いることになる若手が、組織や鉄道の将来を危ぶみ、クビも覚悟で改革への決意を示した「連判状」だった。
井手ら若手の働きかけや政治の流れがあいまって、時の首相・中曽根康弘が6月、分割民営化に消極的だった国鉄総裁の事実上の更迭を決断。国鉄の分割民営化の動きが加速する。
頭の中に「ローカル線の問題はあまりなかった」
だが、わずか37年前にあっ…
- 【視点】
37年前の「国鉄改革」で、「地方路線の行く末」がなぜ、議論されなかったのか。当時の「改革派」の運輸官僚らが、分割民営化を円滑に進めるため、これを政治問題化させないよう腐心していた様子が窺える秀逸な記事。
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